セミナーに通う人は学びよりもホリエモンの指摘するライブ体験が欲しいだけ

 

『属さない勇気』-堀江貴文

著書で解説をしている働き方や生き方の未来について、堀江貴文氏は以下の指摘をしております。

私の考えや思想を知りたいというなら、私の著書やメルマガを読めばいい。講演会で話す内容は、すべて同じだ。本に書いてあることを、いちいち聞きに来る必要はないだろう。本を読んだ方が、講演会場までの交通費より安上がりなはずだ。

それでも堀江貴文を呼びたい彼らは、ライブ体験を期待しているだけだ。生の姿が見られた、声を聞けた、講演会後に握手できた、写真を撮れた……など。私と直接ふれあえる、わずかな可能性に、高い価値を感じているのだ。

マスコミの取材依頼も、大半は同じ。正直、少し迷惑な話だ。私そのものを、ありがたがってもらってもしょうがない。私はアイドルでも教祖でもないからだ。

 

「知識を得たいだけなら、家で本を読めばいいじゃん。そっちのほうが安上がりでしょ。」ということ。「わざわざセミナーや講演会に足を運ぶのは、学ぶことが目的ではなく、その人をアイドルとしてみているからでしょ。」

 

引き続き、瀬戸内寂聴さんのファンにもこんな厳しい指摘を。

 

堀江貴文を崇める人は、どこか新興宗教に洗脳された信者と似通っている。例えば、仏教は経典を唱えると極楽浄土に行けますとか、仏像を拝むと御利益がありますなど、表面だけの行為が信者の間に広まってしまっている。

仏教は本来、ブッダが構築した複雑な哲学みたいなもので、それを理解するのが信者の大切な目的のはずだ。お経の内容を知ることに本質的な意義があるのではないか。

しかし多くの仏教徒は、お経を唱えたり、多額のカネを喜捨したり、仏事修行に打ち込んだり、表面的な行為に熱心になっている。本質を学ぶより、「ありがたいものをいただけそう」なライブ体験の方が大事になってしまっているのだ。

瀬戸内寂聴さんが名誉住職を務められている岩手県・天台寺での法話には、5000人以上の聴衆が押し寄せるという。ほとんどは、寂聴さん見たさのファンだ。仏教の本質を学びたいわけではないだろう。

寂聴さんの声を聞き、生の姿を見たいから、足を運んでいる。寂聴さんの法話をリアルで聞けるという、ライブ体験が欲しいのだ。彼女の思想をきちんと知りたいなら、無数に出ている寂聴作品を読めばいい。その努力をしないで、表面的な行為で満足してしまう。

 

実際に、自己啓発セミナーやネットワークビジネス系のセミナーに足を運ぶ人とよくお話をしますが、彼ら・彼女らのお話を聴いていると、本質的に興味があるのは、このライブ体験なんだな、と感じることが多々あります。

「有名な●●さんと会った」
「こんなお話を聴いた」
「すごく感動した」

とよく話を聴かされますが、それらの経験を経て、何を学んだのか?もっと掘り下げるなら、その人に会って何を知り、その後にどんな行動をして、現在どうなっているか?という3つの話が抜けています。

まるで、「3か月ほど語学留学してきたの。いろいろと刺激を経て楽しかった」と海外の体験談をたくさんするものの、語学力が伸びたお話は一切しない。

できないからです。

なぜなら、語学力が伸びていないから。

ちなみに、私もセミナーには時々参加します。

ただ、学ぶというよりはライブ体験が欲しいからです。

他、セミナー講師よりも、周りのライブ体験をしている人たちを観察しています。

 

 

 

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